本町三丁目 OHIOの物語
ライアンは、これまでアメリカを出たことがなかった。
大学を卒業したばかりの二十二歳。先のことはまだ見えない。
そんな彼が初めて選んだ旅先は、日本だった。
東京のような大都会ではなく、もっと静かで、もっと素朴な場所。
東京駅から新幹線で四十五分。群馬県の高崎市へ向かった。
知らない街。知らない言葉。でも、それがいいと思った。
高崎での日々は、彼にとってすべてが新鮮だった。
ローカル線のがたんごとんという揺れ。アントニン・レーモンド設計の音楽センター。
街角の小さな神社と、風に揺れる鈴の音。
何気ないものすべてが、彼の心をそっと揺らした。
ある夜、ホテルへと向かう道すがら、ひときわ明るいネオンの光が目に入った。
「ファイナル美樹」と書かれた小さなスナックの看板。
名前が妙に気になって、ライアンは立ち止まった。
ほんの少し迷ったあと、彼はドアを開けた。
カラン、とベルの音が響いた。
明るい照明の中、カウンターには数人の常連客たち。
視線が一斉に彼へと向く。
その奥には、艶やかなドレスをまとったママがいて、にっこりと笑っていた。
「いらっしゃい」と、やさしい声。
「こんばんは。えっと、一人です」
カタコトの日本語に、ママはすぐさま「どうぞ、こっちへ」と席を勧めてくれた。
ライアンは緊張しながら腰を下ろし、メニューを手に取る。
「芋焼酎、お湯わりでお願いします」
そう注文すると、周囲の常連たちが面白そうに彼を見つめ始めた。
「兄ちゃん、どっから来たの?」
ライアンは笑顔で答えた。
「アメリカの、オハイオ州からです」
一瞬の沈黙。
そして、誰かが言った。
「ん? おはよう? 朝か?」
「いやいや、『おー!ハイ!』って言ったんだよ!」
店内に笑い声が弾けた。
ライアンも、何となく意味を察して笑った。
「そうですね。おはようでも、おー!ハイでも、どっちでもいいですよ」
その瞬間、場の空気が一気にあたたかくなった。
「よし、今日からあんたは“おはよう”だ!」
「グッドモーニング!いいねぇ、それ!」
そうしてライアンは、その夜から“おはよう”という名前で呼ばれるようになった。
しばらくして、ママがマイクを差し出してきた。
「はい、次はおはようくんの番よ」
スナックにカラオケはつきものだ。
英語の曲もあったが、常連たちは“日本の歌を歌えるのか”と興味津々だった。
ライアンは少し照れながら、宇多田ヒカルの「First Love」を選んだ。
アメリカの部屋で何度も聴いて練習した曲だった。
音程は少し外れていた。発音もたどたどしい。
でも、心を込めて最後まで歌いきった。
歌い終わると、店内は大きな拍手に包まれた。
誰もが笑っていた。温かい目で、ライアンを見ていた。
その夜、スナックを出るころには、ライアンはもう“外国人の青年”ではなく、
“おはようくん”という名の一員になっていた。
ドアの外まで見送りに出てくれたママが、笑顔で言った。
「またいつでも来てね。おはようくん」
翌朝、街を歩いていると、道の向こうから声がかかった。
「おはようー!」
誰かが手を振っていた。
その日から、ライアンは高崎の街を歩くたびに、
あちらこちらで「おはよう!」と声をかけられるようになった。
後日、ママが教えてくれた。
あの夜のことを、地元のFMラジオに投稿したらしい。
“オハイオから来た青年が、今夜、ファイナル美樹で『おはよう』になりました”と。
旅は、ほんの数日だった。
でも、ライアンにとっては忘れられない時間だった。
特別な景色でも、有名な観光地でもなかった。
それでも、誰かの声があたたかく響く場所だった。
笑い合い、呼びかけ合い、ひとつの名前を分け合った場所。
いつかまた、ライアンがこの街を訪れる日が来るなら、
きっと、どこかで誰かが呼ぶだろう。
「おはよう!」
※この物語はフィクションです。お酒を片手に、心ほどけるひとときをお楽しみいただければ幸いです。登場する人物・団体・名称等は架空のものであり、実在のものとは関係ありません。